山形市の北西に隣接する中山町は、芋煮会発祥の地と言われています。 江戸時代には紅花生産が盛んな町でした。 その中で、村山地方でも最多量級の紅花生産をしたのが柏倉家です。 経営は地主と金融が中心でしたが、良質な紅花づくりにも励みました。 旧柏倉家住宅は、明治期の上層農家の暮らしぶりを今に伝える大規模住宅です。 当主は代々「九左衛門(くざえもん)」を名乗り、江戸時代には山形藩の大庄屋を務めていた時期もありました。 屋敷は江戸時代後期に建てられ、明治期の大規模改修で現在の形になったといわれています。 近年、その文化的価値が高い評価を受け、2019(令和元)年に国指定重要文化財(敷地内8棟)に認定されたほか、2018(平成30)年には日本遺産、2019(平成31)年には日本農業遺産の構成団体として多方面からその魅力が認められています。 |
柏倉家では、当主が京都に遠出する際には、お抱えの 大工職人を同行させ、当時の最先端・最高峰の技術を 屋敷作りに取り入れることがあったそうです。 今回は母屋の一部をご紹介します。 @ ニワ(庭)とダイドコ A チャノマ(茶の間) B カッテ(勝手) C トオリノマ(通りの間) D ナカマ(中間) E 下座敷・上座敷 F 仏間(仏蔵) ※ 内蔵は傷みが激しいため、非公開。 上湯殿・前蔵は、内部の管理(漆塗の保護)のため 非公開です。(時期限定で公開日あり。) |
@ ニワ(庭)とダイドコ 母屋に入って板の間の部分をダイドコ(台所)、土間の部分をニワ(庭)と呼んでいました。 「建物の中なのにニワ?」と不思議に思われるかも知りませんが、東北地方や西日本では土間のことを 「ニワ」と呼ぶ地域もあります。 ニワ ⇒ 土間 ⇒ 作業スぺース 東南に位置することが多い。(明治中期に土間をコンクリートに) ニワは玄関と夜間や農閑期の作業スペースを兼ねております。 大きなかまとが特徴。 普通は2つ口が多いですが、使用人が20名以上の時があったので3つ口。 (一番大きい、銅なべは明治19年に山形市の銅町へ特注のもので、湯沸かしや味噌を作るための豆を煮る のに使用。 水は裏山からの清水をカメに貯めて、炊事炊飯に利用していました。 はりの金輪は、食料の米俵を吊り下げていました。 ネズミや虫の対策としてでしたがかまどで薪を燃や すため、いぶされて酸っぱいご飯も時々あったようです。(米が燻製に) 米俵の奥に見える部屋は、行商人や薬売りの宿泊用に使われていたこともあったそうです。 |
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奥に見える部屋が家族や女中達が食事をしていたカッテ(勝手)という部屋です。 カッテ(勝手)は10畳の畳敷(家族用)と10畳の板の間(女中や使用人)に分けられていました。中央には大 黒柱があります。 囲炉裏に鍋ややかんをかけるために天井から吊るされた道具を自在鉤(じざいかぎ)といい火力を調整する 道具です。 家族が居住に使用していた内蔵への出入り口になっていました (傷みが激しいため公開はしていません。 外から外観をご覧下さい。) 南側の押し入れに「オハチャ」という仏様のご飯を炊いていた場所があります。 下の段に置かれている小さなお釜、何に使われていたものだと思いますか? 実はこのお釜、「ヘッツイ」と呼ばれるもので、仏様へお供えするご飯専用に使用されていたものなんです。 (すすで真っ黒でした。) その上の仏器・盛槽(もっそう)によそってお供えしていました。 柏倉家は信仰心が厚いことでも有名ですが、それを裏付ける証といえる一品です。 |
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